mail magazine archive 天草おもしろ百景

天草物語(1)

「天草」と一言で言っても、けっこう大きな島で一日では回り切れないくらいの広さがあります。
熊本駅からバスで行くならば、熊本市内から宇土市、宇城市を通り、一号橋を渡って天草に入ります。
一号橋を渡ると「大矢野町」です。天草四郎が生まれたところとされています。
その先は小さい島が点々とあり、二号橋、三号橋を渡り松島町に入ります。そしてあと二本の橋、四号橋とご号橋を渡り切ってやっと「天草上島(あまくさかみしま)」と言われるところにたどり着きます。下島まで行くには、さらに30分ほど走ります。
マイカーで行く時は、長崎の島原半島に口之津(くちのつ)港から天草の鬼池(おにいけ)港までフェリーが運航されています。約30分の船旅です。
長崎市内の茂木(もぎ)港からは、天草苓北町の富岡(とみおか)港まで高速船が利用できます。

「戦国期」の天草

天草五人衆と小西行長と加藤清正

「○○が寝返りましてございます」
大河ドラマや時代劇ドラマの「戦」のワンシーンでよく聞くセリフですが、地方の小独立勢力「国衆(くにしゅう)」や「地侍(じざむらい)」が、一個の大きな勢力の傘下に入り、大合戦という一時的な現象の中で連合をなすやり方で、味方に付くか裏切るかによって勝敗が決まったというのが日本史の「戦」というものです。
秀吉の天下統一は「一円領主制」を推し進めることでした。この時代、日本の山々、谷々には何千もの小領主がいたと言いますが、秀吉のやり方は、すさまじいもので家臣にならないものは、刀槍を取り上げられ農民にさせられたのです。
天草には、五人の「国衆」と呼ばれる小領主がいました。大矢野氏(おおやのし)栖本氏(すもとし)上津浦氏(こうつうらし)天草氏(あまくさし)志岐氏(しきし)ですが、この五人衆は、見事なほど巧みに大勢力が現れるたびに、旧勢力を裏切るという転換を繰り返して生き延びてきました。この時代の感覚は、これを裏切り行為とはしなかったようです。
秀吉の天下統一により、肥後は二分割され「加藤清正」と「小西行長」が治めることになり、天草は、益城郡から宇土、宇城をあてがわれた「小西行長」の支配下に入ったわけです。五人衆の立場は「与力」です。小西行長は、秀吉の「与力」ですが、五人衆は小西行長の「与力」です。
五人衆は、秀吉の言うところのモダニズム(一円領主制)が解らなかった…。五人衆は、自分たちも小西行長と同じ「与力」だと思ったんですね。
小西行長は、宇土に築城するにあたり、五人衆にも「手伝い」を命じました。ところが、五人衆は「小西行長の命令とは何事だ!同格のものが同格に命ずるなどとバカげたことを!」と、小西行長の命を一蹴したわけです。
ここで初めて、天草五人衆は、大勢力にたてつき反乱を起こすことになったのです。
とはいえ、五人衆には天下人秀吉にたてつくつもりはなく、あくまでも新大名小西行長と対等の気分を持っていたのではないかと…。そして、キリシタンである小西行長は、同じキリシタンである五人衆には甘かったのではないかと思われます。
手に負えないと判断した小西行長は、秀吉に訴えます。
当然、秀吉は「打って平らげよ」
肥後の「加藤清正」、近隣諸大名の「有馬氏」「大村氏」にも行長を助けるように命じます。
天草下島の志岐城(現在の苓北町志岐)は、攻囲されるのですが、この時天草の国衆は「和平の勧告使が来た」と勘違いします。
何とも、天草人のおおらかさや人の好さ、時世への認識の甘さが出ているように思います。そこには、海によって情報が遮断される地理性によるものもあるとうかがえます。
ここで容赦しなかったのが、キリシタン嫌いの「加藤清正」です。一人でも多く叩き潰すつもりであったようです。勇猛果敢な清正の天草上陸は、たちまち天草全土に伝えられました。
そして、登場するのが「木山弾正(きやまだんじょう)」です。

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木山弾正無念坂(きやまだんじょうむねんざか)

天草市本渡から苓北町へつながる山越えの道路(広域農道)のちょうど頂上付近に「木山弾正無念坂」という碑があります。木山弾正が加藤清正と戦い敗れた場所です。
「木山弾正」は、島津氏が肥後益城郡で阿蘇氏を攻め滅ぼした時の阿蘇氏の武将(国衆)で、肥後赤井城の城主でした。落城とともに海を渡って天草へ落ち延び、下島の「天草氏」を頼って庇護された客将でした。「天草氏」に厚遇された恩に酬いるには「清正を倒して討死するのみ」と思い定めたのだろうと思われます。
敗者である木山弾正側の記録はありませんが、加藤清正の武勇伝として木山弾正の名が出てきます。
『「弾正は、我と一戦と定めたる体なり」
弾正は、槍をとって迫りながら「御大将と見及びたり。木山弾正と申す者なり。一槍仕るべき」と名乗って槍を突き入れた。』とあります。
戦国の無数にある国衆の一人で、天草氏の客将であった木山弾正が、加藤清正の文献のおかげで戦国の天草を象徴する存在になったのです。

 

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